2012年6月23日〜24日
早池峰山・五葉山
東北の山と復興支援屋台村


2日間の移動コース


早池峰山のルート


五葉山のルート

6月23日

盛岡駅0910=1012岳駐車場1030−1046河原坊1056…1354早池峰山1415…1616小田越1620−1640早池峰神社1650=1907宿舎

6月24日

宿舎0610=0714赤坂峠0730…0814畳石0824…0925石楠花山荘0930…0931日枝神社…0940五葉山0947…0955日枝神社…1000石楠花山荘1010…1051畳石1055…1137赤坂峠1145=1320復興支援村1410=1416気仙沼駅



 
 今回の山行は、東北の山を歩いて消費活動をすることによって、少しでも東北の復興支援の一助となればとの企画だった。
私は当日の指定席券がとれず、前日に盛岡駅に入りカプセルホテルで一泊した。
山は快晴とは言えなかったが、あこがれの早池峰山の花を見ることが出来て満足。
しかし、一向に復興の気配の見えない東北の現実を見てショックは隠せなかった。

今回の山行記は、リーダーである坪井さんが書かれたものを転載させていただいた。



百名山の一つであり、また花の山として知られる早池峰山とシャクナゲで有名な五葉山を登り、気仙沼復興支援屋台村を訪れる。
2011年3月11日、東日本大震災では19000人の死者、行方不明者を出し、いまだに34万人が不自由な生活を強いられていると言われる。
1年3ヶ月を経た今でも大津波の爪痕は歴然と残り、見る者を打ちのめす、この様に物見遊山気分で立ち寄っても良いものなのか・・・・・・・
しかしながら、昨年5月理容のボランティアで気仙沼に行っていた坪井はガレキの山が随分と片付いた事に驚く、また現地では、泥の掻き出し、アルバム整理といった通常のボランティア活動は一段落して、現在は多くの人(観光客?)に来てもらいお金を落としてもらいたいというのが本音である事も事実なのである。



 6月23日東京駅6:28発はやて11号に乗る、ホームに居た岩渕と長島は、目敏く坪井を見つけ前日に盛岡入りをした4人を除く全員を確認したとの事である。
 この電車は全席指定なので1ヶ月前に各自で切符を購入した為、車両がバラバラとなる、大宮から大勢が乗り込み立ち客も居る、鈴木は立席の指定券があると言う。

 「はやて」は速い! 大宮の次は仙台、その次は盛岡である、2時間30分で着く、チヤータしていた中型バスに乗り換える、予約では28人乗であったが34人乗が来る、お陰で補助イスは使わなくて済む、1時間程で岳駐車に着く、ここからシャトルバスに乗り換え30分程の河原坊に移動、バス代は往復@1400である、まとめて払って欲しいと言われ、隊長の坪井は見得を張って「俺が立て替える」と言う、1400×28=39200を払った坪井は急に懐が心細くなる・・・・・・・

 早池峰は北の先住民の語で「paha(東)ya(陸)chinika(脚)」から来ているとの説がある、ここは高山植物群落が国の天然記念物に指定されている為か、その保護に熱心に取り組んでいる。
 河原坊登山口、小田越登山口には靴の泥落しが置かれ、帰化植物を持ち込まない配慮がされ、又これまで山頂のトイレからボランティアがし尿を担いで下ろしていたものを、現在は@300の携帯トイレが売られている。早池エコパックと書かれたグリーンの袋である。使用済みの物は下山時に所定の容器に捨てる様になっている。

 ストレッチの後、男性12人、女性16人の2班に分かれて出発だ、坪井を先頭に男性陣が先行する、坪井は人数確認の番号を掛ける、「イチ・ニッ・サン・・・」と列の半ばで声が消えてしまう、再度番号を掛ける、「イチ・ニッ・サン・シ・・・」また列の半ばで立ち消えである、たった12人なのに・・・・・・・ 
 緊張感がなければ事故に為りかねない、坪井は注意を促す、3度目でやっと12番まで届く。                    
 コメガモリ沢に沿ってダケカンバやオオシラビソの林を歩き、何度も渡渉を繰り返す、1時間程で沢から離れ右手の尾根に取り付くと、ハイマツの中岩場の急登である、お目当てのハヤチネウスユキソウのまだ小さな花が朝露に濡れている、チングルマ、ミヤマオダマキ、キバナスミレ等が見られる。

 眼の前に巨石がそびえる。霧の中、飛行中の天狗が頭を打ったと云う「打石」だ、ストックをしまい、両手を空けるよう指示を出す、太い鎖を掴んで登る、傾斜が緩くなり少し行くと山頂である、避難小屋や早池峰神社の奥宮がある。
 本来なら岩手山、秋田駒ケ岳、和賀岳、焼石岳から遠く鳥海山も望める筈なのであるが霧が濃く何も見えない・・・・・

 風が強く寒い、カッパを着て非難小屋前の岩場から小田越を目指して降りる、オオシラビソの疎林の木道を行く、剣ヶ峰への分岐を右にコースを取ると、岩場の急斜面に鉄梯子が付いている、ほぼ垂直かと思われる角度である、坪井が先頭で降りる、鉄梯子が急斜面にピッタリと張り付いているので、足が充分に梯子の桟に乗り切らない、下を見ると濃霧の中、何処までも梯子が下がっている様に見え、吸い込まれそうである、坪井は下を見ない様にと後続者に注意する、後で聞くと下を見ても人の頭しか見えず怖くなかったと言う。

 寒かったせいか何人かの足ツリを出しながらもどうにか小田越に着く、シャトルバスの時間まで10分である、鈴木は後続の女性陣に知らせに行く、シャトルバスの客は我々28人だけである、河原坊手前の駐車場で我々のバスに乗り換える、本来は小田越〜江繋〜吉里吉里と走れば近いのであるが、岳〜小田越はシャトルバスしか通さない為、早池峰ダムまで戻り釜石街道を通って吉里吉里へと大回りする、19:00吉利吉利海岸の民宿サトウに着く、坪井は用意した部屋割りを張り出す、荷物を部屋に置き食堂に集まる、ともあれ一日お疲れさんでした、 辻田の音頭で乾杯!明朝5:00起床、6:00出発を確認して解散する。


前日東京駅で買ったラフティー弁当
東北に行くのに何故か沖縄の食だ


早池峰山河原坊登山口に到着


ノビネチドリ




ミヤマシオガマ


チングルマ


ハヤチネウスユキソウ


ミヤマオダマキ


お花畑


キバナコマノツメ


ナンブイヌナズナ


チシマアマナ


ミヤマハンショウヅル



イワウメ


ミヤマキンバイ


早池峰山頂上に到着


山頂の剣たち


一等三角点と頂上


一等三角点標


下りの梯子を並んで降りる


ホソバイワベンケイ


ナンブトラノオ


民宿でゆっくりくつろぐ



6月24日未明、雉の鳴き声で目覚める、4時を少し回ったところだ、隣の堀はもう居ない、散歩に行ったのか、洗顔、ひげ剃りの後坪井も外に出る、この民宿は1階が津波の被害にあったと聞くが、綺麗にリフオームされておりそれとは解らない、この建物の裏手のやや低い処にも宅地があり、そこはコンクリートの土台を残しただけで何も無い、道を渡って海岸へ行く、道沿いに建っていたと思われるコンクリート製の擬木が、倒れたまま放置されている。

 岩渕は「ひょっこりひょうたん島」のモデルとなった島があれだ等と指差す。
 朝食は目玉焼き、明太子、納豆、味噌汁、ヨーグルトが並ぶ、何か夕食より立派な感じがする、隣の塚根が「納豆は苦手なので食べて欲しい」と言う。

 宿の前で集合写真の後出発、国道45号線を南下する、吉里吉里はやや高いのと、もともと建物が少ないのであまり感じなかったが、僅か南の大槌は壊滅的な被害に遭っていた、陸橋の鉄製の手摺は飴の様に曲がり、土台だけを残した住宅地が広がる、土木屋の堀は「この辺の橋は耐震補強した筈なのに、津波には敵わなかった」と悲しげに何度も言う、一見健在に見える大きな建物も上辺だけで、近くに寄ると内部はガランドーでメチャクチャである、大きな3階建ての建物の内部で鳥がバタバタやっているのが破れ目から見える、近付くと何とカラスが集団で営巣しているのである・・・・・・・
 海岸の少し高い所に立派な建物がある、岩渕は「千昌夫の経営していたホテル千だ」と言う、やはり被害に遭った様で入り口は堅く閉ざされたままである。
 女性から「あっ!キツネだー」と声があがる、見るとガレキの上を2匹のキツネが動いている、こんな事が僅かに慰めとなる。

 赤坂峠の駐車場でストレッチ、道路向かいの鳥居横から女性陣先発で歩き出す、鈴木と日永は薪を背負っている、山頂の避難小屋へボッカのボランティアである、ダケカンバ、カラマツ林の登山道を小一時間で畳石に着く、畳の様に大きな自然石、ベンチ、水場もある、此処からはダケカンバ、ミズナラの林が続く、紅いレンゲツツジが道の両側に現れる、堀は「花の回廊だー」と嬉しそう。

 ハクサンシャクナゲは花が未だ早いというか、花芽がほとんど見られない、今年は不作か、しゃくなげ荘の側に水場があり、ステンレス製の重いヒシャクが2つ置かれている、冷たく美味しい水である、小屋からなだらかな稜線尾根の日枝神社を右折すると山頂だ、本来なら北に早池峰山や遠野の山々、西に遠く奥羽山脈、また太平洋のリアス式海岸線を望む大展望の筈であったが濃霧のため何も見えない、往路を下る、人気の山であるのか登山客が20人、30人の団体でドンドン登って来るので交すのに時間が掛かる。

 赤坂峠から唐丹へ戻り国道45号線を南下、途中から三陸自動車道(無料)を通り、白砂青松100撰の高田松原に着く、見事な松林で海が見えなかったと言われた松原も、たった1本の瀕死の松が残るのみである、田には雑草が茂っている、塩害で田植えが出来ないのだ、それにしても雑草の生命力は凄いものである、「雑草の様にしぶとく」と云う形容は的を射ているのである。

 気仙沼へ着く、大島へのフェリー乗り場近く20数軒のプレハブの店が並ぶ「復興支援屋台村気仙沼横丁」前でバスに向って盛んに手を振る女性がいる、誰だろうー、後で解った事であるが、この屋台村の近所に住む人はいない、お客はバスで来る人が頼りなのでバスが来る度に手を振っているのだと云う。

 お目当ての店は評判で既に売り切れている、仕方なく他の店で海鮮丼(1,500円)を注文する、坪井がビールを飲んでいると、船戸も我慢出来ないと言いビールを注文する。
坪井の他にみろくの女性5人程が海鮮丼を注文したのであるがナカナカ出て来ない、田中が袋を提げて戻って来る、賢くも注文を待つ間にお土産を買って来たと言う。待つ間に勘定を済ませる、塚根が「未だですか」と催促すると、これから卵焼きを載せると言う、塚根は「卵焼きは後で良いから早く持って来て」再度の催促、やっと出て来る、坪井は瞬く間に平らげ土産物屋に急ぐ。ホヤ、茎ワカメ等を買いバスに戻る。

  14:26気仙沼発の一関行きに乗り込みほっと一安心、電車は込んでいて全員立つ、
車窓からは田植えの終わった田んぼが広がる、日本の田舎では普通の風景である、たった数キロ離れただけなのに・・・・・・・
一関の手前で降りる人、仙台で降りる人、松島へ寄りたい人等様々なので事実上は気仙沼で解散となる、一関では新幹線の待ち時間に和太鼓の演奏があった、「また一関さきてけらい」と書かれた横断幕の横で、男女数名に依る迫力のある見事な演奏である、「またいぐから」と言いたくなる思いであった。


太平洋の朝焼け


がれきは片付けられたが
復興はまだまだ先だ


消防署も放置されている
建物は烏の営巣地とかしていた


五葉山の赤坂峠登山口


ヤマツツジが咲き誇っていた


五葉山山頂


五葉山の三角点

 
 
コケモモ

   
 
三陸鉄道の橋は落ちたままだ

 
軌跡の一本松も茶色く枯れてしまった

 
耐震補強した建物も津波には勝てなかった

 
一関駅で太鼓に見送られる
東北の復興を願わずにはいられなかった